思い出しています

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信仰者の葛藤とその目覚め

15) ὁ γὰρ κατεργάζομαι οὐ γινώσκω· οὐ γὰρ ὃ θέλω τοῦτο πράσσω, ἀλλ’ ὃ μισῶ τοῦτο ποιῶ.

ローマの信徒への手紙7章を読み直す

7章にはある「葛藤」が描かれています。たとえばこうです。15節です。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」神の良き律法を行うことができないで葛藤している様子が語られています。

印象深い言葉ですが、この言葉を含む7章の解釈について、古来、決着していない議論、論争があります。2つあるいは3つのことを焦点として論じられています。一つは、ここに描かれている葛藤は、いったいパウロの個人的な経験なのかそうでないのかです。その場合、2つ目のことになりますが、この葛藤は回心以前の人間のことなのか回心後のことなのかです。そしてもう一つは、そもそもこの葛藤とはいかなる事態なのかということです。分かりにくいのですが、今は三のことに焦点を当てて読み直してみたいと思います。

読み直すきっかけとなったのはある書物を通して動詞の態の一つである中動態についての関心を喚起されたからでした。中動態と言うのは今は失われていますが古典ギリシャ語や聖書のギリシャ語に存在していた動詞の性質に関する文法上の説明の仕方の一つです。よく知られているものに能動activeと受動passiveとがあります。説明は不必要でしょう。ところがそのいずれでもない中動middleという性質を持った動詞の形態があったのでした。文法という文章の仕分けの仕方が編み出された時、そう呼ばれるようになりました。近代人には捉えがたいのですが、能動でも受動でもない別のもう一つの動詞の形態です。
私たちは能動ー受動という対立(対称)の図式で物事を考えることにすっかいなれ親しみ、意志や主体性、そして責任という観点から自分も含めて人間の行為をとらえようとしていますが、それとは別の言語の世界、捉え方がその昔にはあったのでした。それが中動と呼ばれる世界です。
ところで、ギリシャ語は語の語尾の変化によって能動であるか受動であるか中動であるかが示されます。そして中動の語尾変化は受動態に似ています。能動とははっきりと異なっています。ところがその意味は能動である、と一般に説明されます。分かって分からない説明ですが、それを真に受けて普通は能動の動作として翻訳されるのです。
ところが、この中動態と格闘し、それが何かを探求し、中動態の世界に案内しようとしてくれている哲学者が現れました。國分功一郎という人です。著作は「中動態の世界ー意志と責任の考古学ー」です。『医学書院』と言うところから発行されています。それは、依存症からの回復と取り組んでいる人たちとの関わりから生まれた著作であることを物語っています。後書きでこう記しておられます。「私はそこで依存症の話を詳しくうかがいながら、抽象的な言葉では知っていた『近代的主体』の諸問題がまさしく生きられている様を目撃したような気がしたのだと思う。『責任』や『意志』を持ち出しても、いや、それらを持ち出すからこそどうにもなくなっている悩みや苦しみがそこにあった。」

私の読解力の乏しさがおもな理由であるが、まだ腑に落ちないところもある。けれども、興味深く読ませていただいた。
思い出してローマの信徒への手紙7章15節をひらいてみると、やはり「私がしていること」と訳されている語は中動態であった。中動態で言い表される他に言いようがない事態がここに表現されているように思われます。

今日はここまでです。続きは後の日に。

15) ὁ γὰρ κατεργάζομαι οὐ γινώσκω· οὐ γὰρ ὃ θέλω τοῦτο πράσσω, ἀλλ’ ὃ μισῶ τοῦτο ποιῶ.

もがいていた貴重な時代4その2

もがいていた時代に何をしたか。説教のための学びと共同の研鑽をしました。今回は、その話の2です。
2、同僚の牧師たちと毎週同じテキストで説教をするようにして、一緒に説教準備のための黙想をするようにしました。これが今回のお話です。

当時、大阪の豊中にいました。近くの箕面というところに同年輩のS牧師が、少し離れていますが茨木で担任教師をしていたN伝道師がいました。発端を忘れてしまいましたが、3人で毎週木曜日の夜に集まって説教の準備として黙想をするようになりました。時間は早くて午後8時くらいから遅くなると午前2時くらいまででした。会場は茨木教会の伝道師館です。建て直した直後で、立派な住宅、快適に黙想会をすることができました。
大阪というところは面積が狭いので、交通量の少なくなる夜は、短い時間で行き来できます。私が箕面のS牧師を迎えに行き、茨木まで出向いたのでした。その車の中での会話について思い出があるのですが、後日にということにします。
黙想会で、何をしたかというと、まずギリシャ語テキストを開いてしばらく黙読をします。次に、テキストを巡って自由に話し合います。基本的にはそれで終了です。テキスト黙読が30分くらいだったでしょうか。黙読といってもテキストを眺めるということです。その後の話し合いは、たいがいS牧師が口火を切りますが、3人で一緒に一つのテキストを覗き込む、ことになります。テキストの個性に気づき、共通の認識を持つようになります。解釈が困難なことにぶつかると、N伝道師がおもむろに厚いドイツ語注解書を開きここにはこう書いてあると紹介してくれます。ピンとこないこともありましたが(簡便に利用できるような注解書はありませんよね。)そそれなりに参考になりました(窓を開けて外の空気に触れるというような感じですね。)。そうしているうちに自然に黙想が深まって(広がって)いきます。テキストをめぐって、さらに、それに触発されて教会のこと、人間や社会のことなどが話題に上がります。そしてテキストに戻ってきて、神学的霊的(当時は霊的という自覚はありませんでしたが)な事柄へと移り、書物を通して知ることのできていた説教者や神学者や文学者、哲学者の言葉(表現)などが思い出されては披瀝されます。この一連の黙想ではS牧師が大いに賜物を発揮してくれました。そして、N伝道師の聖書学の関心からの発言などが加わり、やりとりが続いていきました。私はというと二人の話をじっと聞くという役割り?でした。
ここで開いて黙想をしたテキストで、三人はそれぞれの教会で説教したのです。ですから、時にはその録音を持ち寄り、説教批評会をすることもありました。
4年間続いたでしょうか。この黙想会を通して教えられたことは多々ありました。貴重な経験でした。それらのことについては後日、少しづつご紹介したいと思います。
続く

ハイム・ラビン著「ヘブライ語小史」紹介の続き 4章の3

第4章その3

ここでは、バビロン捕囚と捕囚民のユダヤへの帰還、エルサレム再建の時代に至る推移が論じられています。

古典ヘブライ語は前586年にエルサレムが滅亡するまでの400年間用いられました。この間、都エルサレムにおいてさえ話し言葉には変化が見られたであろう。しかし、書き言葉は、文法と語彙の重要なものはほとんどそのままで、文体だけが変化した。これは古典ヘブライ語が教育によって習得された文章語であり、主に社会的エリートが有用に用いたということを意味しています。当時は、書簡や書物は実際にはその著者によって書かれたのではなく、文字と共に書き言葉を習得していた専門の書記生によって書かれたのであった。これら書記生は、できうる限り厳格に言葉の基準を維持することに意を尽くした。なぜならば、話し言葉と書き言葉の距離が大きくなればなるほど、かれらの立場がより有利になるからである。つまり話し言葉と書き言葉に乖離が生じていったと、ラビンは考えています。
そして、ネブカドネツァルによるエルサレム破壊とバビロン捕囚によって大きな変化がもたらされました。ネブカドネツァルは祭司、書記官、職人たちを、すなわち書き言葉の担い手たちをバビロニアに移送させ、ユダヤに残ったのは「ぶどう酒を育てる者と農夫」(列王記下25:12)、すなわち村民だけであった。そのため、ユダヤでは、ヘブライ語が話されてはいたが、古典の文章語を引き続き育成する者が一人もいなくなった。
捕囚は70年続いた。この期間に捕囚の民は彼らのまわりの言語を話すことをまなんだ。当時のバビロニアの話し言葉はアラム語であった。他方書き言葉は古代のバビロニア語(アッカド語)で書かれて伝達されるものもの(公文書のようなもの)だけが用いられていた。
前539年ペルシャの王キュロスがバビロニア帝国を征服した。彼はすぐに公式な記録にバビロニア語の使用を禁じ、その代わりにもっとやさしいアラム語を代用させた。またペルシャの王たちはバビロニアの支配を受けずにペルシャ帝国の支配に置かれた地域にもアラム語を広めた。このようにして、アラム語はインドからヌピア(現北部スーダン、エステル1:1)にいたる広大な地域における伝達文書の言語にもなった。アラム語による碑文がインドでものこされている。前272年に全インドの支配者となったアショカ王が北西インドに建てた碑文である。その他に、アスワン近隣のイェブ(エレファンティネ)からアラム語で書かれた膨大な数の書簡や契約書が出土している。これらは、ヌピアの国境の近くに、ペルシャ人によって配置されていたユダヤ人駐屯軍からはっせられていたものである。それらはヘブライ語語法の影響がみられるが、すべてアラム語で書かれている。
これらのことから、キュロス王の勧めで帰還した捕囚民が、私的にも公的にもアラム語を使用する習慣を持ち帰ったと考えられる。彼らを見張るために、公務でのアラム語使用をペルシャ当局が要求したであろう。それ故、ネヘミヤ記8章8節には、書記官エズラが水門の傍にある広場で律法の書を民の前で読んだ時、「彼らは神の律法の書を翻訳して(メフォラシュmephorash)解説を加え、朗読箇所の[意味を]理解させた」と記されている。「理解させた」とはレビ人たちが人々に与えた説明のことであり、「翻訳して」とは聖書がアラム語に訳されたことを意味している。ちなみに聖書のアラム語訳は「タルグム」と表されている。この翻訳は聖書のヘブライ語を理解することのできなかった帰還したばかりの捕囚民にとって必要なことであった。同時にペルシャ当局への公式声明という目的もあったと思われる。

もがいていた貴重な時代4その1

もがいていた時代に何をしたか。説教のための学びと共同の研鑽をしました。今回は、その話です。説教における私の非力ゆえに、学びと研鑽を必要としていたのでした。
説教は牧師の務めの中で最も重要な事柄のひとつです。また、教会に対して、教会員に対して大きな影響力を持つものです。説教者の責任は重大です。その重大さを十分には理解してはいなかったし(今は、少しは理解が深められたとはいえ、十分には理解したとは決していえません)、説教の非力によって引き起こされるさまざまな困窮については苦い経験として感じ取らされてもいました。そして、平たい言い方ですが、良い説教をしなければならない、という思いに強いプレッシャーを感じました。
どのような学びと共同の研鑽をしたかというと、
1、自分の説教を評価、批評してもらうようにしました。
2、同僚の牧師たちと毎週同じテキストで説教をするようにして、一緒に説教準備のための黙想をするようにしました。
3、当時活動が始まった説教塾に加わりました。
4、もちろん、自分なりの取り組みもしました。
以下、一つ一つ簡潔にご紹介します。

説教のために、なしたこと。
1、評価と批評をしてもらうようにしました。
家内に頼みました。評価と批評の手段は◯、✖️、△です。
◯の意味するところは、説教を聞いて礼拝が終わり、胸を打ちながら、しかし、密かな歓びを抱いて礼拝堂を後にした、です。
✖️は説教中にいたたまれず、その場を離れたいと思った、です。
△は、今日は説教を説教としてまあまあ落ち着いて聞けた、です。
日曜日の夕方、この評価と、その理由を聞くのが、時には喧嘩にもなりましたが、習慣となりました。
何年続いたでしょうか。これの良し悪しについては別の機会にお話しますが、説教を評価してもらうことは有益なことだと思いました
続く

FaceBookに投稿したこと『暇と退屈」

暇を持て余しているというわけではありませんが、なすべきことが多々あるにもかかわらず、身体的に対応できることが少なく、結果として暇をもてあます状態にあります。そのぶん、頭を使うこと(頭の中だけでの動き)が多くなってきました。もちろん、快適に動くわけではありませんが。
退それで、退屈の感じ方が変わってきました。身体を動かしてなすべき作業をこなすことが次々と求められると、動きの鈍い頭ですから働かせることがままならず、退屈に思えてくるようです。
普通、退屈と思われるような状態が、わたしには退屈ではない状態となっているようです。もしかしたら、哲学者や詩人になるかもしれません?

 

もがいていた貴重な時代 その3

もがく時代に、何をしたか。聖書と神学の勉強をしました。本を読みました。一人で、そして友と一緒にです。
勉強が好きだったからではありません。勉強しなければならない、と強く思わされるようになったからでした。牧師は聖書を教えたり、信仰のこと、教会の教えについて、教えなければなりません。どれ一つとして簡単なことではありません。難しいことだと気づいたのでした。
神学校で一通りのことを学んだのですが、それは概論。緒論に過ぎなかったのだと思います。それ以上のことを咀嚼する力量が私になかったとも言えます。人はいろいろな背景を持っており、様々な言葉や思想に触れていますが、その生身の人に向かって理解してもらうようにと教えたり話したりすることの難しさに直面したとも言えましょう。より深く、より正確に、より広く理解していなければなりません。
非力を感じていたのは私だけではありませんでした。非力のレベルは人それぞれで、違いはありましたが、非力だと感じている同じ世代の同僚を見出し、一緒に勉強する交わりができました。有意義な学ができた、と思っています。一人で読んだ書物で印象深かったのはP.ティリッヒの「キリスト教思想史」や熊野義孝の「キリスト教概論」エミール・ブルンナーの「聖書の真理の性格」などがあります。もちろん、ルターやカルヴァンも読みました。バルト研究会では「和解論」を丁寧に読みました。同年輩の親しい牧師達とは「古典を読む会」と銘打って神学各分野で必須と思われるもののうち、一人では読むのが難しいし、一緒に読むと有益だと思われる書物を取り上げて読みました。例えば、ラートの「旧約聖書神学Ⅰ、Ⅱ」トゥルンナイゼン「牧会学Ⅰ、Ⅱ」ボーレン「説教学Ⅰ、Ⅱ」などです。ユンゲルの「神の存在」も。これは難解で、一通り読み終わったところで翻訳者のところへ車で押しかけて行き教えを請いました。大阪から愛媛県までのドライブを忘れられません。
この「古典を読む会」は「関西説教塾」へと発展的解消しました。説教に関することは次回にお話しいたします。読んだ書物を隅々まで覚えてはいませんが、読むことが一つの経験となって、それが肥しになっています。こうしているうちに、なお非力ではありますが徐々に向上して行ったと思います。