Nikon 1 シリーズ

カメラの話です。1シリーズとは1インチセンサーを使用しているので名付けられたようです。コンデジよりも少し大きいという感じです。レンズ交換式ですがカメラのサイズはコンデジと余り変わらないのです。

このシリーズが発売されてから3年以上たち、カメラも進化をとげています。わたしの愛用はV2とV3です。一眼レフカメラのようにファインダー(正確にはEVFです)を覗いて撮ることもできます。V3はメカニカルな部分が充実していて、別売のグリップを取り付けると、どこか、かつてのF3を思いおこさせます。小さくても本格的と言えましょう。V2は一眼レフカメラのミニチュアというようなデザインで軽量、操作は簡易です。写りには変わりがないように、わたしの目には映ります。

で、最近、よく持ち歩いているのはV2です。一般に評判が悪いのですが、わたしにはそのデザインが可愛く感じます。

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やっと落ち着いた生活が戻ってきました

10月から11月中旬までは、忙しい日々が続きました。忙しいというのは浜松を離れて為すべきことが多かったということです。10月などは月の半分以上、外で過ごしました。そして、有り難いことにやっと通常の生活に戻りました。

忙しい日々を過ごしながらあらためて感じたことは体力が無くなってきたなあ、ということです。そして、通常にもどって感じることは牧師らしいことに取り組む喜びです。ことに、説教や聖書研究の準備に必要な時間を割くことができるのは牧師の特権かも知れません。その特権を享受することができます。

20年数年ぶりに次年度の教会学校教案のテキスト研究を依頼されて執筆することになり、取り組みはじめています。若いころ苦労しながらやっとの思いでお役を果たしました。ある意味、苦痛でもありましたが、今は喜びつつ取り組むことができています。落ち着いて取り組む環境を与えられているからだとも思います。

秋野不矩美術館

浜松市天竜区二股というところにある、この町の出身で日本画の革新をなしとげた画家・秋野不矩(ふく)を記念する美術館です。

車でちょこっと行ってみました。美術館の中は後日、ゆっくり観るとして、今回は建物だけです。ついでに、美術館の手前にあるお寺で紅葉を写真に納めました。

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金地院

浜松の北、東海道の関所があったところですが気賀という古い町があります。そこから山に少し上がったところに臨済宗の金地院という寺があります。

古い寺ですが、現在の住職のお祖父さまが再興しされました。そのお祖父さまは四国・宇和島のご出身で、宇和島のみかんの樹を移植して周囲に広めたそうです。

現在の住職は柔和で、軽快、かつお坊さんらしい風格があります。奥さまは三歩さがってご主人の後を歩くお方で、わたしの妻とは違いました。こちらは三歩先を歩きます。(これは内諸です)。

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300年前に建てられた古い金堂が残っています。修復を待っていますが莫大な費用がかかるようです。その天上です。

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ちなみに、このお寺の檀家代表は常磐幼稚園(今は閉園してありませんが教会付属です)の卒園生でした。

廬州李氏宅

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今秋、台湾に行く機会がありました。空き時間に台北からMRTに乗って廬州というところに行き李氏宅古蹟を見物しました。19世紀末から20世紀初頭に福建省から台湾に移り住んだ一族の家で、再建され公開されています。一階建てに見えますが、内部は二階構造になっています。農業で栄えた家ですね。

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収穫感謝

収穫感謝2 (6)完成

もうすぐ感謝祭を迎えます。11月の第4木曜日です。17世紀のピリグリム・ファーザーズのプリマスでの出来事が起源とされています。プロテスタントの多くの教会では、これにならって11月第4日曜日を収穫感謝主日として守っているかと思います。

このカードは娘が描いてくれました。けっこう力が入っていますね。サンクス。

宿命?運命?摂理?/「旧約預言者は運命を引き受けた」

似た言葉が3つ。大辞林によると、

宿命・・・前世から定まっており,人間の力では避けることも変えることもできない運命。宿運。 「これも-と思ってあきらめよう」

運命・・・①超自然的な力に支配されて,人の上に訪れるめぐりあわせ。天命によって定められた人の運。「すべて-のしからしめるところ」「これも-とあきらめる」②今後の成り行き。将来。「主人公の-やいかに」

摂理・・・①万象を支配している理法。「自然の-」②〔providence〕キリスト教で,この世の出来事がすべて神の予見と配慮に従って起こるとされること。

となる。が、・・・・・「旧約聖書の預言者はその運命を引き受けた」という言い方があり、その場合は、自由をもって選び取った結果を意味しているという。神の召命を受けて(宿命ではなく、摂理がそこに働いていることであろうが人には分からない)、預言者にとって思いがけないその召命に対して、結果として自由な意志をもって応答するに至る、その自由の結果を運命と呼び、上記の言葉となっているようです。

今日のお勉強はここまでです。