もがいていた貴重な時代 その3

もがく時代に、何をしたか。聖書と神学の勉強をしました。本を読みました。一人で、そして友と一緒にです。
勉強が好きだったからではありません。勉強しなければならない、と強く思わされるようになったからでした。牧師は聖書を教えたり、信仰のこと、教会の教えについて、教えなければなりません。どれ一つとして簡単なことではありません。難しいことだと気づいたのでした。
神学校で一通りのことを学んだのですが、それは概論。緒論に過ぎなかったのだと思います。それ以上のことを咀嚼する力量が私になかったとも言えます。人はいろいろな背景を持っており、様々な言葉や思想に触れていますが、その生身の人に向かって理解してもらうようにと教えたり話したりすることの難しさに直面したとも言えましょう。より深く、より正確に、より広く理解していなければなりません。
非力を感じていたのは私だけではありませんでした。非力のレベルは人それぞれで、違いはありましたが、非力だと感じている同じ世代の同僚を見出し、一緒に勉強する交わりができました。有意義な学ができた、と思っています。一人で読んだ書物で印象深かったのはP.ティリッヒの「キリスト教思想史」や熊野義孝の「キリスト教概論」エミール・ブルンナーの「聖書の真理の性格」などがあります。もちろん、ルターやカルヴァンも読みました。バルト研究会では「和解論」を丁寧に読みました。同年輩の親しい牧師達とは「古典を読む会」と銘打って神学各分野で必須と思われるもののうち、一人では読むのが難しいし、一緒に読むと有益だと思われる書物を取り上げて読みました。例えば、ラートの「旧約聖書神学Ⅰ、Ⅱ」トゥルンナイゼン「牧会学Ⅰ、Ⅱ」ボーレン「説教学Ⅰ、Ⅱ」などです。ユンゲルの「神の存在」も。これは難解で、一通り読み終わったところで翻訳者のところへ車で押しかけて行き教えを請いました。大阪から愛媛県までのドライブを忘れられません。
この「古典を読む会」は「関西説教塾」へと発展的解消しました。説教に関することは次回にお話しいたします。読んだ書物を隅々まで覚えてはいませんが、読むことが一つの経験となって、それが肥しになっています。こうしているうちに、なお非力ではありますが徐々に向上して行ったと思います。

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もがいていた貴重な時代、 その2

もがく時代に、何をしたか。同じようにもがいている友を得ました。その話をします。
あるとき、伝道所で会計をしてくださっていた70代の役員がご夫妻で礼拝に来られなくなりました。それまでは日曜日には朝7時には来られて、庭の花壇の手入れをしてくださっていました。きちっと会計の務めをなさり、きっちりした方でした。それだけに、少し人に厳しいところもおありでした。
牧師に対しても同様、いや牧師だからこそ、厳しさを求めておられたと思います。朝早く伝道所に来られて花壇の世話をなさる、そのおりおりにその厳しさが感じとられるのでした。
何か仰りたいことがあったのでしょう。その頃、二階の一部増設の話が出ていました。伝道所の会員にとっては、少人数で伝道所の財政を支えるのは、大きな教会(親教会)の会員には分からない苦労が伴いました。ことに会計には重圧がかかっていたことでしょう。その上に増築の話ですから、重圧はさらに大きくなりましょう。私と言えば、次回にお話ししますが、牧師として、説教者として非力でしたし、ご存知のように、よく言えば温厚、悪く言うといい加減ですから、伝道所の皆さんには苦労をかけていたのでした。
そのような状況のもとで、この会計役員は心が折れてしまったのです。牧師に躓いたということもおっしゃっておられました。
小さな伝道所です。奥様と二人が礼拝に来られなくなるのは大きな痛手でした。さすがの私も悩みました。どうしたら良いだろうかと、落ち込んでいた時、近くで伝道・牧会している関西学院出身のI牧師(私よりも3、4歳上の方ですが、訪ねて来られたのでした。この先生とは当時、大阪教会を会場に毎月行われていた牧会研究会や会場持ち回りのバルト研究会で一緒でしたので親しくしてもらっていました。その時、思い切って正直に実情を話して、どうしたら良いだろうかと相談しました。すると、すぐに返ってきた言葉が「僕にも同じような経験があるよ」でした。何か同志を得たという思いになりました。そして、アドバイスを二つくれました。
一つは、この問題の処置を役員会に委ねてみたらどうかということでした。役員全員が一人ずつ会計役員から話を聞いてきてもらい、どうしたら良いかを話し合ってもらう、というのが具体的なサジェスチョンでした。二つは、その時に、牧師はぜったい嘘を言ってはだめだよ、でした。自分を擁護しようとしてはならない、まな板の鯉になるようにということだと理解しました。
そのようにしました。1ヶ月かけて役員が会計役員夫妻を訪ねて、話を聞いてきてくださいました。何をお聞きになったかは、詳しくは承知しておりません。そして役員会が開かれました。静かな役員会でした。役員それぞれの感想をお持ちで、短い言葉でそれを披瀝しあって、今後、伝道所の歩みをどうしていけば良いかを話しあってくださったのでした。結論は、非力で頼りない牧師ではあるが(そうは仰らなかったですが、共通認識であったと思います)、牧師を支えつつ伝道所の形成、伝道に力を尽くして行こうということでありました。
思いがけないことでしたが、この事を通していっそう役員会形成がなされて、伝道所の歩みが強められたのでした。
役員会に委ねるということは牧師にとっては容易なことではありませんが、それは必要なことだったのです。牧師は嘘を言ってはならない、は今も肝に命じている言葉となっています。相変わらず非力で不十分な牧師であることにかわりはありませんが。
そして、I牧師は同じようにもがいている友となりました。
もがき、強がることもできない時に、友を見出したのでした。
I牧師の他、何人もの友を与えられた時代でした。

続く

もがいていた貴重な時代(連載)

牧師は若い頃、20代、30代の頃には苦労するようです。いや苦労するものです。
もがく時代と言えましょう。40を過ぎれば苦労はないと言うことではありません。
苦労はありますが、若い時の苦労が肥やしになって、落ち着いて取り組み、克服していく知恵と力が備えられてきているのだと思います。
その意味では、若い時に苦労しない人は不幸だと思いますし、苦労しても、良い経験を重ねることができなければ、意味がないと思います。

さて、もがく時代に、何をしたか。
1、同じようにもがいている友を得ました。
2、聖書と神学の勉強をしました。本を読んだということです。一人で、そして友と一緒にです。
3、説教のための学びと共同の研鑽をしました。
4、教会学校教案誌の毎週のテキスト研究を4年にわたって執筆しました。これは自主的にしたのではなく、負わされたのでした。しかし良い経験になりました。
5、教会の青年たちと山登りに行ったり、キャンプをしたりして遊びました。

続く

ハイム・ラビン「ヘブライ語小史」4章の紹介つづき

ラビンは古典ヘブライ語の成立とその後の推移を4章と続く5章で論じています。今回は成立後の推移について論じている部分を4章その2、また、その3として紹介します。

4章その2の2

王国のヘブライ語がどの程度他の言語からの借用に自由であったか、ということは計りにくい課題である。
しかし、以下のことは確認できる。
1、ヘブライ語中のほとんどの外国語の借用語は、ヘブライ人とカナン人の間の接触の頃のものである。それらはダビデの時代の頃には、すでにヘブライ語としてうけいれられていた。
2、預言者たち、特にイザヤは、預言者たちが預言しようとした国の言語に由来する外国語を用いる傾向があった。ただし、それが当時一般の使用に浸透して行ったかどうかは不確かである。
3、捕囚前のヘブライ語にアラム語からの借用語が含まれていたかどうかが、大きな論点となる。

このように語って古典ヘブライ語が持つ個性と特徴はのちの時代にも引き継がれたとみています。そしてさらに続きます。

前記最後の点、つまり3については今日の学問は、王国時代に由来するテキストに現れる単語について、アラム語の起源を仮定することにはおおむね否定的である。
しかし、外国との交易 によってもたらされた術語は自由にもちいられたであろう。ここでラビンは具体的にいくつかの語を拾い上げている。またギリシャ語からの借用語とおもわれるものもある。ギリシャの船員たち往来によるのであろう。

さて、統一王国分裂(前926年)によって再び部族間に政治的境界ができ、南北分裂王国時代をむかえ、宗教、文化、政治的結合などについては別の歩みをすることになったが、言語の点では分裂することはなかった。このことに関連して注目すべきはを預言者アモスとホセアである。
アモスはユダの出身であるが、北王国で預言し、その言葉は北王国の人々にあいつうじたのである。また、ホセアは北王国の出身であ、サマリアで用いられていた俗語を取り入れるほどであったが、接続詞のshe-(sha-)は決して用いず、asherのみである。つまり北王国は少なくとも文学的目的のためには、それがある程度の地方色を帯びていた可能性があったとしても、ダビデーソロモン時代の古典ヘブライ語を続けて使用したということである。

第4章その3

古典ヘブライ語は前586年にエルサレムが滅亡するまでの400年間用いられた。この長いあいだに話し言葉がエルサレムの都においてさえ全く変化しなかった、ということはあり得ないことである。しかし、書き言葉は、文法と語彙の重要なものはほとんどそのままで、文体だけが変化した。これは古典ヘブライ語が教育によって習得された文章語であり、主に社会的エリートが有用に用いたということを意味している。当時は、書簡や書物は実際にはその著者によって書かれたのではなく、文字と共に書き言葉を習得していた専門の書記生によって書かれたのである。これら書記生は、できうる限り厳格に言葉の基準を維持することに意を尽くした。なぜならば、話し言葉と書き言葉の距離が大きくなればなるほど、かれらの立場がより有利になるからである。

 

老健施設でショートステイ

1月16−18日、聖隷福祉事業団のベテルホームで2泊3日のホームステイをさせていただいた。家内の休暇のためである。

なぜベテルホームでかと言うとケアマネージャーがそこではリハビリをしてくれますよと言って勧めてくれたからである。

所長先生のあたたかい配慮により、熱心なリハビリを受けることができた。お陰で、右足が筋肉痛になり、久し振りの大いなる疲労感を味わっている。夜は死んだように眠った。

ただし、イビキは生きていたが。

 

2018年は

下記の文章を週報に載せていただくようにおねがいしました。


「2018年は」という題でささやかな、しかし真剣な希望を書かせていただきます。
昨年の教会総会の折に日本キリスト教団・教会の教勢の低下と教会の存続に関して悲観的な見通しを述べ、しかし「教勢が落ちていったとしても、主にお仕えすることについては、いよいよ成長していきたい」とお話しさせていただきました。
具体的には、教会をお建てくださる聖霊の働きにあずかり、仕え、共に聖書に聞き、御言葉を分かちために聖書黙想に取り組みたいと申し上げました。
そう申し上げた週に私が脳出血に倒れ、5ヶ月以上も教会を開けることになってしまいました。教会の存続どころか私の生命の見通しが立たないような状況を迎え、皆様にご迷惑をおかけしました。けれども有難いことに、お支えいただき、お祈りくださって、今日に至りました。
「終わり」を自覚しながらも、今日なすべきことを教えられ、主の業に励みたいと願っています。そこで聖書黙想を遅くなりましたが始めたいと思います。最初は水曜日の祈祷会において、そして徐々にその機会が広がっていけばと願っています。
聖書黙想は難しいことは何もありません。その日に与えられた短い聖書箇所を読み、黙読し、自分たちの生活に関連して心に響いた言葉を紹介しあい、最後に祈るというものです。
この聖書黙想を重ねていくことで、聖書が私たちの身近なものとなり、味わい深く聖書に触れることになると確信しています。聖霊の働きと、聖書が心に開かれることを待ちつつご一緒に取り組んでまいりましょう。
1月24日(水)からはじめたいと思います。場所は牧師館を予定しています。宜しくお願いいたします。

街頭給食

病気のためか、年齢のせいかよくわかりませんが、若い頃のことを懐かしく思い出しすことが多くなりました。今年もYさんから年賀状をいただいたのをきっかけに年末年始の街頭給食のことを思い出しました。

今で言うホームレスの方々への食事のサービスです。小学生の頃は父母に連れられて給食を用意する調理ボランティアに、神学生時代は上野公園や山谷あたりでの給食ボランティアに行きました。Yさんは大変有名な法律家のお嬢さんですが、若い頃によくそのボランティアをなさったようです。

そういえば年末年始の無料宿ボランティアもありました。時代が随分変わったので、今はどうなっているのか知りませんが、40年ほど前は日雇いの労働者の方々が年末年始を暖かく過ごすところがなく、行政も十分に対応できていなかったので民間のボランティア団体がサービスを代行していました。

ある時、騒動がありました。利用者の方々が食事のことで不満を感じて騒動になりました。食事が食事になっていない、と言う不満です。味や量のことではなく、メニューの仕様に関することです。当時の利用者の方々の常識では、白いお米と、メインのおかず、例えば焼き魚とか肉料理ですね。それと汁物、その3点がしっかりと顔を揃えていなければ食事とはみなされ無かったのでした。カレーやチャーハンのようなものがメインになるとその3点がぼやけます。作る方は簡単なのでついついそうなってしまっていたのでしょう。騒動はすぐに収まりましたが、その時、厨房を請け負っていた人たちの不正が表に出ました。材料費を低く抑えて、差額を懐に入れていたのでした。

このような年末年始のボランティアを経験して、ホームレスの方々の生活をほんの少しですが、知るようになりました。

その経験は前任地の六本木におられるホームレスの方々とのほんのわずかな接触でしたが、そのときに役立ちました。