3時間かかる

昨日車椅子を押してもらって、家内のスマホを機種変するために近くのドコモショップへ。

親切に対応してもらったが、3時間かかった。ちょっと長すぎた。正直疲れてしまった。今日は午前中に昨年入院したリハビリテーション病院で定期の受診。午後訪問リハビリを受けたが疲れが残っていて、辛かった。直後に爆睡。

こうやって少しずつ体力がついていくのだと思う。

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毛づくろい

Twitterでフォローしている勝間さんのブログを書く理由です。「サル山のサルの毛づくろいのようなもの」は面白い。人間社会では「毛づくろい」が失われてしまって挨拶もしない社会になって、閉塞していないか、と考えさせられました。個人情報が知られないようと神経を使い、そうすることで個人を守らないといけないと思い込んでいる。殺伐とした社会に生きているのだから、と。「毛づくろい」などあり得ない。しかし、本当のところはそれを必要としているのではないだろうか。殺伐とした社会を助長していないか、少し考えて見なければならないと思う。

センチメンタル?サクラメンタル?

29日は「サクラメンタル・ジャーニー」という説教題にしました。

「センチメンタル・ジャーニー」を捩りました。同名の歌を松本伊代さんが歌ったり、同じくリンゴ・スターの曲名にも採用されて親しまれています。おおよそ旅は感傷的なものですが、元々は英国の作家

ローレンス・スターンという英国国教会の牧師が綴って、1768年に出版された紀行文の書名『センチメンタル・ジャーニー』(A Sentimental Journey)によって広く親しまれるようになりました。このローレンス・スターンを彼の代表作から影響を受けた夏目漱石が日本に最初に紹介しています。紀行文センチメンタル・ジャーニーは静養を兼ねた大陸旅行の体験から生まれた作品です。著者は結核を患っていたのです。そして、大陸旅行は人生の最後の旅となりました。その後、病状が悪化、同年3月ロンドンで没したと言われています。牧師の綴った人生最期の紀行文なので読んで見たいと思うのですが、日本語で読めるのかどうかわかりません。

さて、わたくし達には一つの旅路が始まっています。サクラメンタル・ジャーニーです。それは、神の不思議な御手に導かれる御国への旅路で、私たちの人生の導きとなっており、救いを辿って行く旅です。

 

二枚舌?

このところ歯の治療をしています。

先日、大きく口を開けて奥歯の治療を受けていたのですが、歯科医の先生が

「張田さんは舌が大きいから治療しにくいわ」と言われるので、

「私の舌は二枚あるでしょうか。」と訊ねると、

「そうね、うーん、三枚かしら」とのお返事をいただきました。

 

 

信仰者の葛藤とその目覚め

15) ὁ γὰρ κατεργάζομαι οὐ γινώσκω· οὐ γὰρ ὃ θέλω τοῦτο πράσσω, ἀλλ’ ὃ μισῶ τοῦτο ποιῶ.

ローマの信徒への手紙7章を読み直す

7章にはある「葛藤」が描かれています。たとえばこうです。15節です。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」神の良き律法を行うことができないで葛藤している様子が語られています。

印象深い言葉ですが、この言葉を含む7章の解釈について、古来、決着していない議論、論争があります。2つあるいは3つのことを焦点として論じられています。一つは、ここに描かれている葛藤は、いったいパウロの個人的な経験なのかそうでないのかです。その場合、2つ目のことになりますが、この葛藤は回心以前の人間のことなのか回心後のことなのかです。そしてもう一つは、そもそもこの葛藤とはいかなる事態なのかということです。分かりにくいのですが、今は三のことに焦点を当てて読み直してみたいと思います。

読み直すきっかけとなったのはある書物を通して動詞の態の一つである中動態についての関心を喚起されたからでした。中動態と言うのは今は失われていますが古典ギリシャ語や聖書のギリシャ語に存在していた動詞の性質に関する文法上の説明の仕方の一つです。よく知られているものに能動activeと受動passiveとがあります。説明は不必要でしょう。ところがそのいずれでもない中動middleという性質を持った動詞の形態があったのでした。文法という文章の仕分けの仕方が編み出された時、そう呼ばれるようになりました。近代人には捉えがたいのですが、能動でも受動でもない別のもう一つの動詞の形態です。
私たちは能動ー受動という対立(対称)の図式で物事を考えることにすっかいなれ親しみ、意志や主体性、そして責任という観点から自分も含めて人間の行為をとらえようとしていますが、それとは別の言語の世界、捉え方がその昔にはあったのでした。それが中動と呼ばれる世界です。
ところで、ギリシャ語は語の語尾の変化によって能動であるか受動であるか中動であるかが示されます。そして中動の語尾変化は受動態に似ています。能動とははっきりと異なっています。ところがその意味は能動である、と一般に説明されます。分かって分からない説明ですが、それを真に受けて普通は能動の動作として翻訳されるのです。
ところが、この中動態と格闘し、それが何かを探求し、中動態の世界に案内しようとしてくれている哲学者が現れました。國分功一郎という人です。著作は「中動態の世界ー意志と責任の考古学ー」です。『医学書院』と言うところから発行されています。それは、依存症からの回復と取り組んでいる人たちとの関わりから生まれた著作であることを物語っています。後書きでこう記しておられます。「私はそこで依存症の話を詳しくうかがいながら、抽象的な言葉では知っていた『近代的主体』の諸問題がまさしく生きられている様を目撃したような気がしたのだと思う。『責任』や『意志』を持ち出しても、いや、それらを持ち出すからこそどうにもなくなっている悩みや苦しみがそこにあった。」

私の読解力の乏しさがおもな理由であるが、まだ腑に落ちないところもある。けれども、興味深く読ませていただいた。
思い出してローマの信徒への手紙7章15節をひらいてみると、やはり「私がしていること」と訳されている語は中動態であった。中動態で言い表される他に言いようがない事態がここに表現されているように思われます。

今日はここまでです。続きは後の日に。

15) ὁ γὰρ κατεργάζομαι οὐ γινώσκω· οὐ γὰρ ὃ θέλω τοῦτο πράσσω, ἀλλ’ ὃ μισῶ τοῦτο ποιῶ.